ダブルブラザー「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 ENTRY FILE I」

2009年01月01日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」

あけましておめでとうございます。
昨年は、多くの方々に本当にお世話になりました。
今年もどうぞ、よろしくお願い致します。

で、2008年最後の日に観た作品は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」だった。
何故これなのか。
たまたま気が向いたのか、根底に何かあるのか、よくは分からないけれど、楽しい年越しができた。

そんなわけで、今さらな感を否めない感想。



突然父親に呼び出された碇シンジは、いきなりエヴァンゲリオンなる機体に乗って世界を破滅せんとする使徒と戦うよう要求される。
シンジは戸惑いながら、迷いながらも、エヴァのパイロットとして戦うことになる。
何故、自分なのか。
何故、こうなのか。
その疑問の答えは出ないまま、物語は進み、第6使徒との戦闘へと向かう。
そこでシンジは、父親と楽しそうに会話している綾波レイとの接触を深める。

説明するまでもない、有名なストーリー。
これに感想を書くのも、時期的にナンセンスだとは感じる。
が、この新劇場版はすごい作品だと、やはり思ってしまう。
すでにテレビ版では最終話を迎え、劇場版も出ているのに(実はこちらの激情版は前半しか観ていない)、それでも新しい物語のように思えてしまう。
それは恐らく作画や演出などの効果が追加されたためもあるだろうけれど、この物語の鮮度がいつまでも瑞々しい、もっと言えば初々しい要素を秘めているからだと思う。

父親に捨てられたと思い込んでいたシンジは、今になって自分を呼びつける父親に近づきたくても近づけない。
それは父親以外の人間に対しても同じこと。
ただ、エヴァに乗るという付加価値のおかげで存在を許されていると思い込んでいる。
「綾波ほどの覚悟もなく、人類を守る実感もないのに、何故エヴァに命をかけてまで乗るのか」
と自問に終始する。
存在を認められることは、それほど重要なことだろうか?
シンジにとっては、おそらく経験がないための、ないものねだりだろうとも思う。
手もとにないものだから、ほしくてしょうがない。
そのために命を賭すなんて、馬鹿げている。
そう思っても、もう回り出した運命の輪からは逃れられない。

他人に促されるままではなく、自分の意思でエヴァに乗らない限りは、どこにも区切りをつけられない。
それが分からないのは何故だろう、と観客として疑問を感じる。
シンジの存在の心もとなさは、実はすごく共感する部分だ。
けれど彼の前には答えに近いものがある。
それに気づかないのが、もどかしい。

恐らく、私はこうして自分と重なる部分のある作品が好きなんだろうな、と何となく予測している。
今では古臭い概念となった自分探しを、いまだにやめることができない。
ありのままを受け入れられない弱さ。
それを別の方向に持って行って、素材として活かすという発想までは至るけれど、方法がいまいち分からずにいる。
そんな不器用な空回りを続ける作品が、アニメだろうとマンガだろうと、好きだと感じる。

人間関係の基は、やはり家族なのだろうか。
シンジが父親のことを「あんな奴」と呼ばわった時に平手打ちを放つ綾波。
あの時の彼女は、母親そのものだと思う。
ここで役者はそろっている。
かつて少女であった母。
自分を胎内で慈しんでいた母。
そして、その母を守っていた父。
そもそもその存在がなければ自分は成立し得なかった父。
そして自分。
それなのにすれ違う。
人間は役割だけでは、生きられないからだろうか。

ということをつらつら考えながら、エントリーファイル1も読んでいる年明け。
昨年はあまり妄想できていなかったので、今年はめいいっぱいやりたいと思う。

at 11:21│Comments(2)TrackBack(0) エヴァンゲリオン 

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この記事へのコメント

1. Posted by じゅぴたー   2009年01月02日 08:37
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
また、家のほうに遊びに来てくださいませ。
2. Posted by ひのき   2009年01月02日 10:39
>じゅぴたーさん
あけましておめでとうございます。
こちらこそ、今年もよろしくお願い致しますね。
ガンダムとかガンダムとかガンダムとか、いろいろ語りましょう。
とりあえずZZを観てからそちらへ遊びに行かせて頂きたく思います(笑)

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